南砺市立福光美術館

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棟方志功
棟方志功
棟方志功
MUNAKATA SHIKO1903 〉1975
撮影:濱谷浩/©︎片野恵介青森県生まれ。画家を志し上京。民藝運動の提唱者 柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らに見出され親交を深める。
ヴェネチア・ビエンナーレなど国内外の美術展で高い評価を受けるなど我が国を代表する版画家として活躍し、昭和45年には文化勲章を受章した。
昭和20年から26年まで、富山県福光町(現南砺市)に戦禍を避けるため疎開。この間、数々の代表作を制作した。当館ではこれらの作品を中心に展示している。また、疎開中に生活した旧居は棟方志功記念館「愛染苑」内に保存され、一般公開している。
略歴
明治36年
1903
9月5日、青森市大町1丁目1番地に生まれる。
昭和11年
1936
国画会展出品作「大和し美し」により柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らに見出される。
昭和20年
1945
富山県福光町(現南砺市)に疎開。東京空襲で版木の多くを焼失する。
昭和24年
1949
岡本かの子の詩「女人ぼさつ」に取材した「女人観世音板画巻」を国画会展に発表。
同作は昭和27年にスイス・ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。
昭和26年
1951
11月25日、東京へ戻る。
昭和30年
1955
サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で「二菩薩釈迦十大弟子」が版画部門最高賞を受賞。同作は翌年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展でも国際版画大賞を受賞し、世界のムナカタの地位を確立した。
昭和45年
1970
文化勲章を受章。
昭和50年
1975
9月13日、肝臓ガンのため死去。(72歳)
二菩薩釈迦十大弟子
左隻
二菩薩釈迦十大弟子
右隻
にぼさつしゃかじゅうだいでし二菩薩釈迦十大弟子

◎板画

◎昭和14年(ニ菩薩は昭和23年改刻)

◎六曲一双屏風

昭和30年サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で版画部門最高賞、翌31年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展にてグランプリの国際版画大賞を受賞。世界のムナカタの代表作。文殊・普賢のニ菩薩と、釈迦の十人の高弟の姿を彫った。
屏風の柵
広鰭の柵
りゅうりしょうはんがさく びょうぶのさく ひろはたのさく流離頌板画柵 屏風の柵 広鰭の柵

◎板画

◎昭和28年

◎額装

富山県八尾町に疎開していた歌人 吉井 勇の歌集『流離抄』の短歌から31首を題材とし、歌から感じた思いを板画にした作品。棟方が、「わたくしの板画の決定という形」と語る自信作。
天妃鼓笛す
左隻
天妃鼓笛す
右隻
ししんはんぎょうてんじょうがさく てんひこてきす四神板業天井画柵 天妃鼓笛す

◎板画

◎昭和24年

◎額装(二額一対)

白虎、朱雀、玄武、青竜の四神を擬人化し、天を守るものとして天井板画として制作された作品。昭和28年にさらに細かく改刻し裏彩色され、昭和31年のヴェネツィア・ビエンナーレには「二菩薩釈迦十大弟子」と共に「宇宙頌・東西の柵」「宇宙頌・南北の柵」として出品。国際版画大賞を受賞した。
無事
ぶじ無事

◎書

◎昭和22年

◎額装

当時の福光駅職員から頼まれ、揮毫した書。棟方は福光疎開中、地元の書家や、近隣に疎開していた前衛書家の大澤雅休との出会いから、書を本格的に始めた。昭和25年「書の徑の会」の立ち上げにかかわり、多くの若い人たちを指導した。
美魅寿玖の図
左隻
美魅寿玖の図
右隻
みみずくのず美魅寿玖の図

◎倭画

◎昭和19年

◎八曲一双屏風(部分)

昭和19年、棟方は富山県福光の光徳寺に訪れて襖絵「華厳松」を描き、飛沫や隈(くま)、滲み、暈(ぼか)しを活かして描く「躅飛飛沫隈暈(ちょくひひまつわいうん)描法(びょうほう)」という独自の画法を編み出した。本作は同年に描かれたもので、後年、岩絵具の郡青と緑青を使って加筆し仕上げた。屏風という大画面を活かし、ミミズクを大胆に描いている。
華狩頌
はなかりしょう華狩頌

◎板画

◎昭和29年

◎額装

中国通溝の高句麗時代の古墳に描かれた狩猟図壁画と、「けずり花」と呼ばれる矢を東西南北に向けて射るアイヌの祭りからヒントを得て制作した。「けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、花だと、心で花を狩る。きれいな心の世界で美を射、心を射止めること、人間でも何でも同じでしょうが、心を射止める仕事、とういうものをいいなあと思い、弓を持たせない鉄砲を持たせない、心で花を狩るという構図で仕事をした。」(『板極道』)と棟方は言っている。
運命頌板画柵
うんめいしょうはんがさく運命頌板画柵

◎板画

◎昭和26年

◎額装

昭和25年の晩春、最大の後援者であった倉敷レーヨンの社長 大原総一郎が福光町(現南砺市)の棟方のアトリエを訪問して「わたしがビニロンに運命をかける気持を、板で表現して欲しい。」と作品を注文し、その求めに応じて、ベートーベンの交響曲第5番『運命』をイメージして制作された作品。ニーチェの詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を4題に構成し、版木を墨で真っ黒に塗り、丸刀だけを使って直接彫り進めたもので、下絵がそのまま板画になる方法で制作され、「何んともいえない大きい世界」を力強く表現している。パリで開催されたサロン・ド・メに招待出品された。
「板画」について
棟方は「版画」ではなく「板画」という字を使います。板が生まれた性質を大事に扱わなければならない、木の魂というものをじかに生み出さなければダメだと思い、また板の声を聞くということで「板」という字を使うことにしました。
「倭画」について
水墨による肉筆画のことで棟方自身が名付けました。福光時代頃から「倭画」と呼んでおり、得意とした画法の一つでした。