南砺市立福光美術館

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石崎光瑤
石崎光瑤
石崎光瑤
ISHIZAKI KOYO1884 〉1947
富山県福光町(現南砺市)生まれ。幼少の頃から画家を志し琳派の山本光一のもとで日本画の基本を学んだあと、京都画壇の重鎮竹内栖鳳に師事する。大正5年のインド取材旅行後、大正7年「熱国妍春」、翌年「燦雨」が連続して官展特選を受賞し新しい花鳥画を確立。以後大正・昭和を代表する日本画家として活躍した。
また、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授として後進の育成に尽力したほか、ヒマラヤや剣岳登頂など近代登山家としても名を残している。当館では、「燦雨」ほか、展覧会出品作を中心に華麗な花鳥画を多数展示する。
略歴
明治17年
1884
4月11日、富山県福光町(現南砺市)7355番地に生まれる。
明治29年
1896
東京から金沢に招かれた琳派の画家・山本光一に12歳から師事する。
明治36年
1903
京都画壇の竹内栖鳳の門に入る。
大正 5年
1916
新たな画題を求めインドへ。現地の花鳥や窟院を取材し、ヒマラヤ登山にも成功する。翌年帰国。
大正 7年
1918
第12回文展出品作、「熱国妍春」が特選を受ける。
大正 8年
1919
第1回帝展出品作、「燦雨」が特選を受ける。
大正 9年
1920
第2回帝展に無鑑査作品、「雪」を出品する。
大正11年
1922
第4回帝展に審査員となる。(4期審査する。)
昭和 8年
1933
高野山金剛峰寺の襖絵の依頼を受け再びインドへ。
昭和11年
1936
京都市立絵画専門学校(現京都芸大)の教授に就任。
昭和22年
1947
3月25日、脳溢血のため死去。(63歳)
筧
左隻
筧
右隻
かけい

◎大正3年

◎二曲一双屏風

30歳のときに描いた初期の代表作。第8回文展で褒状を受賞し、宮内省の買い上げとなった作品。裏箔屏風に卯の花と白百合が上品に描かれている。羽を休めるつがいの燕が、爽やかな初夏の風情を醸し出している。
燦雨
左隻
燦雨
右隻
さんう燦雨

◎大正8年

◎六曲一双屏風

インドの熱帯風景を描いたこの作品は、石崎光瑤が35歳のときに描いた代表作の一つ。大正5年から6年にかけてのインド取材旅行の成果ともいえる作品で、第1回帝展で特選を受賞。花鳥画家としての地位を築いた。この名作は海外流出寸前に、多くの関係者の尽力で奇跡的に当館で収蔵された。
雪
左隻
雪
右隻
ゆき

◎大正9年

◎二曲一双屏風

第2回帝展に無鑑査出品された作品。大正8、9年に描いた「熱国妍春」と「燦雨」はインドの情景を描いたものだったが、一転して日本の雪風景を描いた。左隻と右隻の金銀の鮮やかな対比、一つの画面に俯瞰と水平など複数の視点が融合するなど、創意の跡をうかがうことができる。当時から傾倒し研究を重ねていた伊藤若冲の影響が色濃く見られる作品である。
寂光
じゃっこう寂光

◎昭和4年

◎二曲一双屏風

石崎光瑤が45歳のときに描いた円熟期の作品。第10回帝展に審査員出品したもので、切箔、砂子を散らした画面に7羽の孔雀と樹木、月が巧みに構成されている。孔雀の羽根の茶と緑の対比に深い調和がみられ見事である。