「二菩薩釈迦十大弟子」(部分)

「二菩薩釈迦十大弟子」(部分)当館所蔵

なぜ、世界のムナカタになれたのか。

棟方が世界に進出した理由は、もちろん棟方作品の国際的な創造性もあるが、版画を正当に評価しなかった日本画壇への批判精神にある。棟方は自らの「版画」を「板画」と呼んだ。油絵を油絵の具で表現するように、板で表現する絵が「板画」と考えた。ゆえに一枚しか摺られなかった板画作品はいくつもある。棟方は版画を絵画と同等に評価する国際展に積極的に出品した。

世界に棟方の名前が知られるきっかけになったのは、「女人観世音板画巻」がスイスのルガノ国際版画展(1952年)で優秀賞を受賞、さらに「二菩薩釈迦十大弟子」がサンパウロ・ビエンナーレ展(1955年)、ヴェネチア・ビエンナーレ展(1956年)に出品して連続受賞したことが大きい。

戦災で戦前の板木や美術品のほとんどが灰になっていた。実はこの「釈迦十大弟子」の板木が残ったのは、棟方が富山県へ疎開したことが幸いしたのだ。疎開の荷物を作る際、この絵の板木がイギリス製のロッキングチェアの当て木に使われて難を逃れた。

棟方はゴッホに憧れて絵の道を選んだと言われる。ゴッホの絵ではあの燃えるような黄色とプルシアンブルーに憧れていた。立山の絵のブルーは、ゴッホを思って描いたのかもしれない。

また、親しかった草野心平の詩に「わだばゴッホになる」という棟方のことを書いた作品があるが、その中の一節に「ゴッホにならずに。世界の。Munakataになった。」とある。欧米の一流美術館では、棟方の作品を所蔵しているところが多く、その評価は日本より高い。