「鐘渓頌 古布の柵」

「鐘渓頌 古布の柵」当館所蔵

なぜ、福光時代の作品は瑞々しいのか。

あえて疎開先にふるさと青森ではなく、しがらみがなく自由に暮らせる北陸、福光町を選んだ。棟方は創作活動のかたわら、近くの小学校に呼ばれて、楽しそうに特別授業を行っている。また、棟方を訪れる人はだれとなく画室に招き入れて、板画の彫り方や摺り方まで教えたという。立山や富山湾などの自然に包まれ、福光町の素朴な子どもたちや人びととのふれあいなど、棟方にとっては居心地の良い、幸福な毎日だったのではないだろうか。

40代の最もあぶらののった時代を福光で過ごしたことになる。福光に疎開してまもなく、民芸運動の仲間で棟方を導いた陶芸家、河井寛次郎に頼まれて、彼の新作展のために6枚の大作を描いている。河井はこの絵に最高の賛辞を贈った。これに前後して、版画の戦後第一作「鐘渓頌」24柵を創作した。鐘渓は京都の河井の窯の名で河井をたたえて作った。

この地へ疎開した画家、歌人、文学者など、さまざまな芸術家との交遊の輪も広がり、地域文化の発展にも貢献した。当時、近隣の町に疎開していたのは版画家織田一麿、歌人の吉井勇、水墨・俳画の下村為山、小説家の岩倉政治、書の大澤雅休、俳人の前田普羅らであり、多くの作家らと親密になった。

二女の小泉ちよえは、当時を回想して「鯉雨画斎では水を得た魚のように、それまで以上に制作も進みました」(「青花堂」より)と記している。福光では豊かな自然風土に囲まれて、自分の描きたい物を存分に描いた。当美術館には、そんな福光時代の希少な作品をはじめ、瑞々しい秀作が数多く収蔵されているので、ぜひご覧いただきたい。